むかしむかし・・・
嚴島神社への参拝は大鳥居沖の船上から社殿と弥山の霊峰を拝むのが主でした。
もみじ谷はその真裏、嚴島神社の御神体である弥山の麓にすわり、
枯れることなく流れる清流を頂きながら、
新緑の活力・渓流の涼・錦繍・冬の静寂と日本独特の自然のかすかな移りかわりを愛でる一大景勝地として多くの方の旅情をお誘いしております。
それでは、ともに歩み続けてきたもみじ谷と岩惣のおはなしを、どうぞお楽しみください。
玄関母屋は明治25年からのもので、ロビーは昭和56年の改築時からのつくりです。
ウグイス、セミとカエル、スズムシの声、冬は静けさがここまでやってきます。
宴会場は新館の誕生とともに、それまでの木造の宴会場「臨渓閣」から「管絃」(115畳・お座敷で100名様、椅子席で80名様収容)へと生まれ変わりました。
現在は、本館・新館・離れと客室を設え国立公園に佇む旅館として多くのお客様にごゆっくりとお過ごしいただけますよう日々邁進しております。
版画は天保7年(1836)「厳島図會」より
時は嘉永年間、初代岩国屋惣兵衛はふと「自分は土着の者で楓谷の麓に暮らしながら、このような旧跡地の名所を平素山野のように荒れたままにしておくのはいかにも残念なことだ。」と思い立ち、因幡屋茂吉という人と奉行所へ開拓のお願いに行き、承諾を頂きました。
後、川を挟んでむこうに茂吉さん、こちらに惣兵衛が亭を結ぶかたわら、二人は競い合うようにして下木を払い、地をならし、苗木を植え、さらには橋をかけ、それまでの天然に幾分の人工を加えてもみじ谷の基礎とともに岩惣がスタートしました。
安政元年(1854)秋のことでありました。
その後もみじ谷の手入れが進むとともに岩惣も少しずつ建て増していき、明治25年には現地特有の松材「弥山木」(みせんぎ)を使用して、現在の玄関にあたる母屋を建築しました。
当時の女将栄子は「なにかお客様に岩惣でしか味わえないお茶菓子をお出ししたい。」と、カステラ生地の中にこしあんを入れたまんじゅうを考案、高津堂の御主人に制作を依頼して「もみじまんじゅう」が誕生しました。
時代を超え漫才ブームのネタにまでなり、国内外でご愛顧を頂けておりますことは、栄子も予想だにしなかったことと思います。
川の中に今はなき「漱玉庵」などの川座敷を設けていたこともありました。
大正の末期から昭和の初期にかけて離れの建築も施され、絶えず谷には金槌の音がこだましていたそうです。
そんな穏やかな四季を奏で続けていたもみじ谷ではありましたが、やはり危機に瀕したことがありました。
昭和20年9月17日、枕崎台風による土石流が発生、谷は壊滅的な被害を受け、岩惣も川座敷が流されてしまいます。
3年後の昭和23年8月「史跡名勝厳島災害復旧事業」の一環で、
もみじ谷川は「砂防庭園」として蘇るべく工事がスタート。
5つの趣意のもとに「渓流の自然を傷つけないこと」を第一として工事が慎重に行われた事実には、戦後の広島の大窮乏という背景を思うと驚きすら感じます。
結果、もみじ谷は巨石を組み合わせた「岩石公園」として生まれ変わり、広島藩主浅野長勲公御宿泊記念のお筆による
「幽玄」の美を醸し出す空間を見事に創り出しました。
これら先人の方々の偉業に思いをいたし、平成10年4月より、
あの土石流で失われた川座敷の跡に「ひょうたん桟敷」を構え、宮島の旅の憩いの場として、
岩惣の末代まで語り継ぐ場としてもみじ谷に一景を点じさせて頂いております。